「私は正しい、どう考えても夫は間違っている」「僕は正しい、妻はあきらかにおかしい」という考えに基づいて夫婦間で揉めることが多いですね。「あなたの信じる正しいことが、必ずしも正しいとは限らない。」という理論について、オカピ―博士が事例をあげてできるだ分かりやすく解説していきます。
正しい、正しくないは、法律や道徳ではなく、あなたの評価軸で判断してみてください。
増税と福祉サービスを推進している〇〇首相の世論調査の結果を見ると、おおいに評価する30%、全く評価しない26%の様な結果がでました。同じ国民でも、正反対の考えを持っている人が相当数いるということです。両者の相当数の人が「自分の評価が正しい、反対の評価をするなど信じられない」と思っているかもしれません。高齢者のAさんは「介護サービスが充実して本当に嬉しい」、中年のBさんは「所得税が3%も上がって生活がより大変になった」というのが評価の原因かもしれません。
あなたはどちらの評価が正しいと思いますか?
お互いの視点や評価軸が違うだけなのです。そのため、世論調査では様々な異なる評価が存在します。
某国政府がデモ隊に対して実弾の使用を許可した。現場のコマンダーは「実弾を撃ってデモ隊を止めろ」と指示を出すと、兵士Aは10数名を射殺した。兵士Bは女性や十代もいるのを見て撃つことができなかった。法的には兵士Aは問題なく、兵士Bは重罪となるかもしれません。道徳的には兵士Aは問題があり、兵士Bは評価されるかもしれません。あなたはどちらの兵士の行動が正しいと思いますか?
この事件の数日後に、テロリストが爆弾を仕掛けようとしている情報があり、発見次第に射殺して阻止するように命令がくだされた。兵士Aは発見したテロリスト3名を射殺してテロを食い止めた。兵士Bはテロリスト3名のうち女1名、15才程度の男1名を見て射撃をためらって逃がしてしまった。そのためテロが起きて30名以上の国民が犠牲になった。この段階であなたはどちらの兵士の行動が正しいと思いますか?
自分が正しいと思ったことが、状況の変化が突如変わることもあるのです。
刑法の犯罪学で「作為:積極的な動作がある犯罪」「不作為:積極的な動作がない犯罪」を学ぶ時に使われる事例の応用です。
激流の川でおぼれている子供がいました。
子供の父親:全く泳げない(助けたかったが無理だった)
子供の母親:水泳がうまい(自分が溺れると嫌なので動けなかった)
見知らぬ人A:多少泳げる(両親がいるので彼らが助けるべきだと思った)
見知らぬ人B:多少泳げる(助けることはできたが、知らない子供なので助けなかった)
見知らぬ人C:小型ボートを持っており子供の父親の貸してほしいの依頼を断った(ボートが流されて紛失するのが嫌だった)
見知らぬ人D:縄を投げて助けようとしたが、面倒になり子供がつかんだ縄を離した(法的な責任はないと考えて助けるのを止めただけ)
最終的には子供は溺死しました。ここではこれらの人の本心はわかりませんがかっこ内の発言をしています。法律上は、親はだけは自分の子供を助ける義務を負いますので不作為犯になります。その他の人は義務を負いませんので不作為犯にはならないというのが一般的な解釈です。
さて、あなたの判断基準では誰が正しく、誰が正しくないのでしょうか?





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